コラム

最後の将軍

ふと、一年近く更新していないことに気付き、久々に歴史の話でも投下します。

書くのは書くんですが、お蔵入りが多いんです。内容が過激な気がして少しためらっているという面もありますが。

 

 

今回は「最後の将軍はどうなったの?」というお話です。

 

 

【鎌倉幕府~守邦親王の場合~】

さて、スタートから書くのが困る人にぶち当たりました。

いっそ源実朝にしてしまおうかとも思いましたが、一応、最後の将軍はこちら。

 

ところで、一般に「源実朝が暗殺されて源氏の将軍がいなくなった」という説明をされることがあり、「実朝が最期の将軍」と誤解されることがあるのですが、これは頼朝の血筋が絶えたというだけで、余所から呼んできた将軍が滅亡の日まで存在しています。その最後の人が守邦親王です。

 

 

で、書くことがあまりにもないので、滅亡年の話でもしましょう。執権である北条一門の大半が自害し、軍も統治機構もすべて崩壊し、征夷大将軍も辞任したのが1333年なので、これはこの時点で滅亡として良いでしょう。始まりはともかく、終わりはすっきりしています。室町幕府なんかいつ滅んだのかさっぱり分からないし、江戸幕府も厳密には良くわからないのですが、この点、鎌倉幕府は潔い(?)。

 

守邦親王はどうなったか? 征夷大将軍を辞任した後で出家したものの、1333年中にはお亡くなりになっているようです。暗殺でもされたのかしら。一応、持明院統に連なるし、北条氏の残党に担がれても面倒なので、消されたような気が・・・ 次の征夷大将軍である大塔宮・護良親王も同じような理由でやられてますし。

 

 

【室町幕府~足利義昭の場合~】

教科書的には、「1573年に足利義昭が京都より追放され、室町幕府が滅亡した」ということになっていますが、実際の義昭さんはどうだったのか。

実は京都からいなくなっただけで、解官されていません。なんと「従三位・権大納言・征夷大将軍」のまま。毛利氏の庇護下で「鞆の浦」(広島県)で幕府(仮)を開催しています。

 

公卿補任によれば、天正五年に死亡説でも流れたのか、「他界云々」とまで書かれていますが、意外にしつこく、天正十六年にようやく「正月十三日落飾(出家)」という記事を最後に消えてくれます。西暦にしますと、天正元年が1573年ですので、追放されて15年ほどずっと「従三位・権大納言・征夷大将軍」のまま。

 

西暦を付けて年表にしましょう。

 

天正元年(1573年) 追放された年(正確には追放されたのは元亀三年で、直後に改元があった。)

天正十年(1582年) 本能寺の変

天正十三年(1585年)豊臣秀吉が関白になる

天正十五年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐

天正十六年(1588年)足利義昭、征夷大将軍を辞任

 

つまり、秀吉が関白になった後も足利義昭は現役で征夷大将軍です。幕府=将軍であるとするならば、室町幕府はまだまだ滅んでいないわけですよ。

 

室町幕府はゾンビみたいなところがあって、「幕府は滅びぬ、何度でも蘇るさ!」的なしつこさで将軍が何度も追放・復活を繰り返していたので、義昭も何とかなると思っていたのかもしれない。ただ、九州の島津氏が降伏した時点で、色々諦めた感はあります。出家したのはその辺が原因か。

 

天正十六年に出家してからは秀吉の遊び相手みたいな感じで生き残りますが、慶長の役に無理やり肥前名護屋まで連れて行かれて体調を崩して没。とはいえ歴代足利将軍の中では最長の寿命です。足利家の将軍は、医療体制が悪いのか腫物とかで死ぬ人が多すぎる。暗殺も2名いるし・・・

 

 

 

【江戸幕府 ~徳川慶喜の場合~】

こちらはかなり有名な人です。大河ドラマにもなりましたし、最近のにも出てますし。そういや、父の斉昭が慶喜を呼ぶときに、「慶喜」と呼び捨てにするシーンがありましたが、あれは多分間違いで、あの時点だと「刑部」と呼んでいたんじゃないかなあ(「昔夢会筆記」で本人がそんなことを言っている)。

 

それはそれとして、この人はいつ征夷大将軍を辞めたのか。多くの人が大政奉還の時点と勘違いをしますが、将軍職辞職が認められたのは大政奉還の行われた慶応三年十月十四日ではありません。「王政復古の大号令」によって幕府が廃止される、慶応三年十二月九日(186813日)のことです。ということは将軍=幕府と考えると、幕府の滅亡は1868年ということになる。

 

ただ、この慶応三年十二月九日が滅んだ日なのかといえばそうでもなく、統治機構も軍隊もそのまま温存されている上に、俺の公式名称は「上様」な!宣言しちゃうし、外交権を列強に認めさせてるし、全く滅んだ感じはしていません。自称「新政府」の過激派が勝手に滅んだと言っているだけ。

 

統治機構も軍事力も健在なため、慶喜一派としては王政復古の大号令の後も余裕で、別に無理しなくても政権奪取は可能だったと思われます。実際に、慶喜は「議定になってくんない?」と京都に呼ばれていますし。

 

ところが、まさかの鳥羽伏見の戦いという大チョンボをやらかし、さらに大坂から逃亡。この醜態のせいで幕府は滅亡してしまいました(慶応四年四月)。教科書だと幕府が滅ぶのは必然的扱いですが、実際のところは、「え?なんで?」って感じです。軍隊持ったまま大阪に居座って、京都を経済封鎖するだけで勝てたんじゃない?

 

  さて、その後の慶喜ですが、死刑になったわけでもなく、とりあえず水戸で謹慎。のち許されて、余生は静岡(のち巣鴨・小石川。たしか巣鴨に駅ができて煩いとかの理由で小石川に引っ込んだとか)で過ごし、亡くなったのはなんと大正二年。徳川家康も抜いて歴代最長寿です。最後の将軍は長生きするものなのかもしれません。本当はまだまだ健康で長生きできるところ、風邪を引いているのに無理をして参内して(息子の官位のお礼言上だったか)、肺炎?を併発してお亡くなりに。年なのに無茶するから・・・

 

 

 

 

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ついに中学入試です。

 

いよいよ明後日、21日には都内・神奈川県内で中学入試が本格的に始まります。入試前にちょっと書いてみます。まあ、ちょっとで済まないのですが。

 

 

【まずはベストコンディションで試験を受けられるように】

もはや急激に学力が伸びるということはありません。「最後の追い込みだー」とか言いながら無茶して風邪をひき、テスト当日実力を発揮できないとなれば、むしろ目も当てられません。

 

この時点では、おそらく大切なのは体調管理です。風邪をひかないようにマスクをするとか、睡眠を十分にとるとか、その辺りを気にしてテスト当日は最高のパフォーマンスで臨めるようにしてはいかがでしょう。

 

 

【いつも通りの生活で】

とはいえ、勉強は通常通りにはこなしましょう。

前日にたまたま解いていた問題がそのまま出題されるという幸運があるかもしれません。あるいは、試験直前にたまたま眺めていたテキストのページが運良く出題されることだってある。そんなラッキーはそう起こるものではありませんが、何もしていなければ絶対に起こりません。

 

ほんのちょっとしたことで合格を左右するようなことがあり得ます。そういったチャンスを逃さないよう、直前まで勉強を続けるのも大切です。

 

 
【事前シミュレーションをお忘れなく】

今年の2/1は雪の予報です。

場合によっては、雪が積もって電車やバスが止まったりするかもしれません。そんなときはどうするか、一応考えておきましょう。学校側が試験時間を遅らせるなどの対応を取るはずで、ホームページなどを確認すれば大丈夫なはず。

 

受験生を抱える家庭であれば、事前に色々計画を立てているかと思います。ただ、最大のポイントは予想外のことに直面しても慌てないこと。内心では慌てても、お子さんにはそれを見せないことが大切です。試験前からお子さんを不安にしてどうする、というお話。

 

それから、1月入試を経験した方はすでにご存じでしょうが、会場は寒いことが多いです。とくに保護者の控室が凍りつくような寒さのこともあるかもしれません、入試は1日で終わるとは限りませんので、「重装備」でお出かけすることをお勧めします。

 
【入試は長期戦になることも考えて】

中学入試は模試の偏差値とは異なり、大波乱が起こります。

確実に受かると思っていたのになぜか落ちるとか、逆にまず無理だろうと思っていた子が受かったりすることもある。これは小学生の学力は、その日のコンディションに大きな影響を受けるからです。偏差値が10も違えば波乱はあり得ませんが、5程度だと落ちて当たり前くらいかもしれない。

 

だから、2/1に失敗したら「この世の全てが闇に包まれる」かのような極端な発想はせず、冷静に、予定通りに日程をこなしていきましょう。2/1に偏差値の低いところを落ちても、2/2で高いところに合格するなんてことが十分にあり得ます。

 
【偏差値の高い合格校=進学校と考える必要はない】

入試では、本人の学力とは関係のないところで、本当に何が起こるか分かりません。ある学校では、歩留まり率を読み違えて(思ったより悪かったらしい)、3回目に大量合格を出してしまい、本来合格しない学力の層が受かってしまったことがある。あるいは出題ミスで不合格の子が合格になったとか(一斉にFAXが回ってきて大騒ぎになった。ちなみに他の中学への払込み済み授業料とか、諸々学校負担で、みたいな話になっていた)、もう訳の分からんことがたくさんあります。

 

一喜一憂せず、とにかく冷静な判断を心がけるのがよろしいかと思います。大学とは異なり、中高6年間は成長にとても大きな影響があります。実力よりはるか上の学校に大金星で合格したときに、「通わない」という判断も選択肢の一つですよ?

 

 

 

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雪の日の三大事件

雪が降っていたので塾生向けの案内をしてみたところ、昨年の春期講習以来更新していないことに気付きました。流石にこれはマズかろうと反省しましたので、とりあえず新しい話を書いてみました。雪が降るとネタにしたくなる歴史上の三大事件です。

 

【赤穂浪士の討ち入り】

今の小学生や中学生はもう大石内蔵助と言われても全くご存じありませんが、30代より上の方であれば一度くらいはテレビで見たことはあると思います。歴史的大事件かと言われるとそうでもないですが、一応歌舞伎なんかでも大人気だし、昔は何度も映画化したし。

 

さて、この討ち入りの日ですが、雪は降っていなかったようです。ただ、前日は大雪だったらしく、事件当日も雪はあった模様。もともと吉良邸は呉服橋御門内(要するに江戸城外堀の内側)にあったので、普通に考えれば襲撃できない位置にありました。それがなぜか事件前に本所松坂町に移転・・・。討ち入りを望む幕閣の陰謀という話もありますが、単にお役御免になったので遠くに移されただけなんじゃないかと。

 

鍛冶橋御門_R      両国橋_R

「吉良上ツケ」とあるのがそう。現在は東京駅の下くらい?        真ん中のお寺(回向院)の下にある本多孫太郎の南側です。

あれ?鍛冶橋御門内?                         御材木蔵が今の両国駅と国技館の辺り。

 

私としては赤穂浪士の討ち入りなんて、「隠居した老人を集団でよってたかってボコる」という、決して誉められたものではないと思いますが、人それぞれですよね。

 

【桜田門外の変】

井伊大老が暗殺された事件です。

事件当日、雪は降っていたようで、お供の皆さんが刀を袋に入れていたというのは有名な話ではないでしょうか。おかげで襲撃時に抜刀できず右往左往した挙句、次々と被害者になっていくわけですが・・・。一応、井伊家の名誉のために言っておくと、一人河西なんとかという剣の達人がいて、落ち着いて刀袋を捨てて闘い、何人か仕留めた人もいます(多勢に無勢で斬死にしましたけど)。

 

33日の上巳の節句ということもあり、江戸にいる諸大名が総登城していたことから見物人も多かったらしく、井伊大老が首を討たれて犯人が持って逃げたところまで皆さんバッチリ目撃している模様。犯人は主に水戸藩士(藩に迷惑をかけないため一応脱藩しているけど)と薩摩の人が1人。

 

謎なのは、首を持った犯人は辰口の評定所の方まで行ったという話だから、日比谷御門を通過しているはずなんだが、門で捕まりはしなかったんだろうかという点。現在の桜田門の前から大手町の駅前の方なので、だいたい2km程度。首持った殺人犯が走って逃げていたら誰も近づきませんか。でも犯人側も負傷していたという話だから、よく2kmも逃げたよな・・・

 

首は、一旦、遠藤但馬守(若年寄)邸で預かったようですが、別人の首ということにして井伊家で回収し、胴体と縫い合わせてしばらく「病気」ということにしたようです(老中も了解していると思われる)。なにせそうしないと、井伊家は取り潰さないといけないし、井伊家を潰したら井伊の浪人達が水戸藩邸に討ち入る可能性が高く、「御三家対譜代筆頭(しかも取り潰し)の戦い」という、かなりヒドイことになりそうでしたので。どっちにしろ江戸幕府の権威はガタ落ちなんですが。

 

無題 - コピー

嘉永二年(1855年)の地図。大岡主膳正のあたりに遠藤但馬守が移ってくる・・・はず。

⇒が逃走経路(想像) ◇が犯人の力尽きた場所。

関係ないですが、「松平肥後守」は会津藩です。

 

実はもう一つ謎があって、最近、世田谷区?か何かで調査したところ、豪徳寺の井伊家の墓には、なぜか井伊直弼の遺体は見つからなかったという話。どこに行ったんでしょうね。

 

【2・26事件】

三つ目はクーデター未遂事件です。陸軍の青年将校が部隊を率いて反乱です。

5・15事件とよく混同されますが、部隊がまるごと反乱を起こした2・26事件の方がヤバい。桜田門の警視庁があっという間に占領されてしまったので、警察は鎮圧を早々に諦め、陸軍に丸投げした模様。陸軍内部では鎮圧するかどうかで揉めたようですが、昭和天皇直々に「あれ反乱軍な!」(超意訳)という命令が出て仕方なく潰した面がある。海軍は長老を3人(斉藤内府・鈴木侍従長・岡田首相)もやられたため激高し、横須賀鎮守府から第一艦隊が出てきて艦砲で反乱軍を狙ってたという話。物騒ですね。

この辺になるとかなり最近でして、私の祖父なんかもすでに生まれていますから、直接話を聞いたことのある人も多いのではないかと。

 

謎なのは、「王政復古の大号令」という、実は全く同じことを薩長がやって、これは成功してしまったのだけれど、その辺の評価が意外にも高い点。あれも暴力を伴うクーデターであるので、「明治維新」を評価する人は「昭和維新」(2・26事件のこと)も評価しないと整合性が取れないと思うんですが・・・。違いは、王政復古のときは天皇が幼く、統治能力も判断能力もなかったという点に対し、2・26時点の天皇は摂政宮以来の統治実績もあり判断能力もあったという点ですね。「幼帝を擁し云々」などと、どこぞの土佐の酔っ払いが口走ったのは確かにその通り。孝明天皇が生きていたら王政復古のクーデターはありえません。むしろ明治維新の方が悪質か。

 

ああ、雪の話でした。

2・26事件も雪の写真が残っているので、雪が降っているときに起こったように錯覚されますが、正確には部隊出動時には雪は降っていなかったようです。その後が大雪なので、雪のイメージしかないんですが。

 

Hanzomon_February_2x_1936_R

 

こんな感じ。

 

 

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新年にあたって

昨年中は途中で骨折をしたこともあり、色々更新をサボっておりましたが、

新年をきっかけに少し更新を続けていこうと思います。

 

さて、年頭にあたり、ちょっとお知らせです。

昨年末に東京都に出していた経営革新計画が承認を受けまして、

それにより授業形式を変えていきます。

(計画期間:平成29年11月から平成33年10月まで)

 

簡潔に言うなら、まず理科や社会で映像機器を導入して授業を進めていきます。

授業スタイルに大きな変化はありませんが、より分かりやすくなると思います。

ということで、今年もよろしくお願いいたします。

 

※なお、経営革新計画とは、中小飢餓用賀新たな事業活動に取り組むことにより経営の向上を図る計画のことで、

中小企業等経営強化法に基づき、国や都道府県知事の承認が行われます。

(ただし、計画書に記載されている商品・サービスや事業を認定するものではありません。)

 

 

 

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