コラム

2016/04/05

歴史を教えるむずかしさ

前々から気になっていたのですが、歴史を教えることの難しさです。

歴史にはさまざまな説があって、何が正しいのかなんて、誰にも分かりません。

だから、「自分は嘘を教えているかもしれない」と日々ドキドキしながら授業をすることになります。

 

そんな中で困るのが、意外に間違えた記述の多い予習シリーズです。

たとえば、「院政が始まると、上皇と天皇が対立するようになりました。これに藤原氏内部の争いが結びついて、1156(保元元)年、保元の乱が起こりました。」

などと書いてあるのですが、こう単純に書かれると非常に困惑してしまうのです。

だって、そんな「上皇と天皇の対立」という事実は、ほとんど見られないのですから。

 

白河上皇が1086年から「院政」を始めたことにするとして、

まず最初の堀河天皇は対立していない。

なぜなら、最初は摂関政治が機能していたし、上皇もあまりやる気ないですから。

その後、関白師通が若死にして、後継の忠実22歳が役に立たないために、

仕方なく白河院が天皇の相談に乗り始めて院政っぽくなりますが、やはり対立していたようには思えません。

 

その堀河天皇は20代で崩御して、次の鳥羽天皇は5歳ですので、これも白河と対立のしようがない。

しかも鳥羽天皇ときたら、20歳で位を追われていますので、対立と言えるかどうか。

次の崇徳天皇を即位させたところで白河が崩御して、鳥羽上皇の院政が始まりますが、

崇徳も23歳で位を追われるので、対立になっていない。院の権力が強すぎて対立のしようがないのです。

 

次の近衛天皇は病弱で、17歳で早世していますので、これも対立したと言って良いのか・・・?

で、ようやく後白河天皇が登場しますが、当然ながら鳥羽在世中は何の権限もないしやる気もないので、対立もしていない。

 

「天皇と上皇の対立」と言えるのは、保元元年の7月2日に鳥羽法皇が崩御して、

7月11日の乱の開始まで崇徳と後白河がにらみ合った時期であって、せいぜい10日くらいでしょう。

そう考えると、「天皇と院が長い間対立したために、乱が起こった」ように読める上記テキストの文章には困ってしまうのです。

その後の後白河と二条天皇の対立を勘違いしているのでしょうか・・・

 

まあ、学者でも研究者でもないので、私自身の理解は相当怪しいものですし、

そもそも、いちいちケチを付けていると際限がないのですが、ちょっと言ってみたかったんです。

他にも色々ありまして、あまりに酷い記述に絶句してしまうときもあるのですが、それは機会があれば。

 

 

ちなみに、私の院政の説明は、

「鳥羽上皇というとんでもない独裁者がいて、そいつがいきなり死んだもんだから、遺産をめぐって大騒ぎになった」です。

 

どこか間違えていたらごめんなさい。

春期講習が終わって調子に乗ってしまいました。

 

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